長いです。ブログってレベルじゃないです。
今回は内田樹さんの「下流志向」を読んでの感想です。この本は俺の人生を変えた本と言っても過言ではない本で、読んでから「たつらー」(ググってください)一直線でした。マジでこの本はお勧めで、教育者だけでなく、すべての人に読んでもらいたい本です。特にみなさんは将来親になるでしょうし(少なくとも僕より可能性は高いと思うので(泣))ぜったい読んでおいて損はないです。
前回は教育と言うよりか町づくりに重きを置きましたが、今回は教育について重きを置いています。と言うより、教育についてのことばかり書いて最後に無理やり町づくりの話につなげるので、こうご期待を(笑)
あとですね、ブログに載せる上で本の内容を短く切り取っているので、論理を結構飛ばして書いていてわかりづらいところが多くあると思います。それは、この本がわかりにくいのではなく、僕の文章がわかりにくいということなので、よくわからんと思ったら本を読んで下さい。
それでは、はじまりはじまり。
「下流志向」(内田樹 著)を読んで
「なぜこんなことを勉強しないといけないのか?」
「これを学んで意味あるんですか?」
「やっぱ役に立つことを学ばないとな。」
などなど、みなさんの周りで言っている人はいませんか?もしくは一度は自分で言ったことはありませんか?もちろん僕はあります。
これらの言葉は誰もが思って言ってしまう言葉だと思っていませんか。しかし、歴史的に見るとごく最近生まれた問いなのです。そして、この言葉を発する人は、自分でも気がつかないうちに「学び」から逃走している。つまり、もしあなた方(俺を含め)がこれら問いを発しているとしたら、気づかないうちに学ぶことから逃げていることになります。
いきなりそんなこと言われても、と思うでしょう。では、いったいどういうことか。
現代人が学びから逃げていっている、その理路について話していきます。
学びからの逃走の原因は主に二つあります。
一つは、教育を経済の原理で考えるようになったこと。
もう一つは、自己決定・自己責任を実践する人が日本のロールモデルになったこと。
まず、上の一つから説明します。
まずここで言う、経済原理とは何か。しっかりと説明すると長くなるので、経済原理の特徴を二つだけ書きます。どちらも消費者側の目線です。
まず「等価交換」。自分の中のお金の価値と商品の価値を比較して、商品の価値が支払うべきお金と同じ(もしくはそれ以上)の価値を持っていればそれらを交換しますよね。あの交換のことだと思ってください。ここで重要な点は、消費者が商品の価値を知っていなければならない、と言うことです。商品の価値がわからないものをお金出して買いませんよね。
次に「無時間モデル」。お金を支払って、商品を手に入れるまでの時間が(ほぼ)ゼロ(もしくはマイナス)でなければいけない。お金を支払ってから三日後に商品が手に入るって嫌じゃないですか。輸送などで高い商品を買うならまだしも、自分が食べたいものが三日後に手に入るって嫌ですよね。今チョコレートが食べたい。お金を払った。「それでは、三日後にとりに来てください」。俺は嫌だ(笑)。消費者はお金を払い商品が手に入るまでの時間を小さくしたい(最近では逆に商品が届いてからお金を払うとかありますよね)、だから経済は需要にこたえるため交換の時間をゼロに近づけていく。交換の時間がゼロの形式を無時間モデルです。
理由は後で書きますが、日本ではこれら二つの特徴を持つ経済原理が社会に浸透し、この原理で教育を考えるようになってきました。
そして、経済原理で教育を考えることになるとどうなるでしょうか。教育が成り立たなくなります。なぜなら教育の本質は経済原理と相容れないものだからです。
教育の本質の一つは、教育を受けることによって、学んだことの価値を知る主体に育てることにあります。学んでいる最中はその価値を知りません。学び終わってやっと価値を知ります。「価値のわからないもの」を「時間をかけて」受け取る。考えてみてください。中学生が連立方程式を学ぶ意味を、高校生が微分積分を学ぶ意味を知っていると思いますか。しかし、彼らは価値がわからないまま学び続け、研究者になった時初めてその価値を知るでしょう。ああ研究が楽しい。意味が分からなかったけど、中学、高校と数学を投げ出さず勉強してきてよかった。ありがとう。と彼らはきっと呟きます。本来教育とはこういうものでしょう。
しかし、経済原理で教育を考えてしまうと、価値のわからない教育なんかに対価を支払わなくなる。時間がたてば意味が分かると想像もできない。教育サービスを売ろうとしてくる教師たち、それを値踏みする自分達、と言うモデルで教育を考え、「そんなもん買うわけねーだろ」と学ぶことを投げ捨てる。こうして学びから逃走する子どもたちが現れてきました。
ではなぜ、教育を経済原理で考えるようになったか、ごくごくざっくり書きます。
それは、家での労働が無くなり、社会活動が「労働」からではなく「消費」から始まるようになったからです。
昔は子どもでも家で手伝うことがたくさんありました。家でのお手伝い(労働)をして、そして褒められる。そうして、主体が形成されてきました。まずやって、それから価値を得るといったモデルです。しかし今では、家での労働がなくなりました。親や祖父母からお小遣いをもらった子どもたちは買い物をする。お金を払い、商品を得る。という経済原理の中で主体が形成されるようになりました。こうして、教育(学校の授業など)さえも経済原理で捉える子どもたちの出来上がったわけです。
長くなってきましたがまだまだ続きます。学ぶことから逃げる理由の二つ目の理由の前にちょっと閑話休題。
この本を読んでから自分を省みました。
実学などは今でも価値を知っているもので、そういった役に立つと知っているものばかり学ぼうとしていました。世の中の価値についてもうだいたいのことは知っていると思っていました。意味がないもの学んだってしょうがねーよとさえ思っていました。それを今はすごく反省。マジで馬鹿だった。
考えてみたら二十そこそこの自分が世の中について詳しい訳がない。すごく価値があって今の自分では理解できないことがこの世界にはたくさんある。絶対。
僕のようなやつを大人から見たら、ゲームしか楽しいことを知らない子どもみたいなものに見えるんだろうな。ゲームばかりしている子どもは「勉強楽しいぞ」と言ってきた大人に対して、「えー、そんなのいいからゲームやりたーい」と返しますよね。大人としては、子どもがそのゲームの知識に詳しくなるより、世の中にはもっと楽しいことがたくさんあることを知ってもらいたい。
今まで、勉強をしろと言ってくれた人たちに本当に感謝。
実際、ゲームよりも楽しいことはいくらでもあった。学んできてよかった。
それでは、学びからの逃走の二つ目の理由。
「自分で決定して、それについては自分で責任を持つ。」
うん。なんかたくましさと自信を感じかっこいい感じがする。
しかしそれが危険なんです。なぜか?
まず自己決定・自己責任は平等ではないからです。自己決定・自己責任と切っては切り離せないものとして能力主義があります。努力したものは階層上昇を果たし、努力しなかったものは社会下層に頽落していく、という考え方です。一見フェアに見えますが、そうではない。能力主義が教育の投資額もそうですが、勉強への信憑が違う。能力主義がフェアであるのは、「努力する動機づけ」が万人に平等に賦与されている限りにおいてです。
中~上流層の家庭に育った子どもは勉強をしていれば、そういった社会的地位を手に入れることができると信じていられます。親に勉強しなさい、したほうが良いと言われたら説得力があります。しかし、下流層の子どもたちはそうではない。勉強をしろと言われても、して意味があるのかわからない、信用できない。家庭内の空気のようなものなので数値で測ることはできないが、必ず信憑の差が出てくるでしょう。
勉強をした分成果が出るわけではないですが、成果が出る可能性は増えますよね。その可能性を信じられる中~上流層の子は勉強をし、信じられない下流層は勉強をあまりしない(ある程度だけする)。ある程度だけ勉強をしても成果が出る可能性はすくなくなります。そして、勉強しても意味がなかったとさらに勉強すること、努力することの信憑を低くしていきます。こうしてどんどん格差が広がっていきます。
次に、これらの自己決定・自己責任が善だと考えられる世の中で育った子どもは、自分で決定し自分で責任を負うことに満足感を得ます。では何を選び取るか(決定するか)。それは勉強をしないこと。なぜなら、所属する集団の価値観に同一化できるからです。ここは少しわかりにくいのですが、子どもは自分が所属する集団(下流層)の中での価値観に同一化する、つまりその集団内での大人によく思われることを目指すと思いませんか。下流層では勉強への信憑が低いので、その集団内の子どもは勉強をしないことで大人の評価を得ようとする。つまり下流層の子どもは勉強をしないことから達成感を得ようと学ぶことをやめる。
さらに、自己決定・自己責任が美だと叫ばれる社会ではリスクが増えるんですよ。
自己決定・自己責任を価値に置く人は、孤立します。誰にも影響を受けず、自分で決めたんだ。たとえ失敗しても自分で責任追うからいいだろ。「迷惑かけないから、ほっといてくれ」となります。
迷惑をかけあえる仲間がいれば、失敗しても致命傷にはならない。また挑戦できる。成功する可能性は減るかもしれないが、どうにもならなくなる可能性も減る。リスクヘッジができる。しかし、孤立してしまった人はリスクヘッジできない。一度失敗したら終わり。もう挑戦できない。
普通に生きていれば失敗するかもしれない場に出くわしますよね。就職できないとか。たとえば、俺留年したんですけど、うちの親に余裕がなければ大学を辞めざる得なくなっていたかもしれない。もし親が、お前が選んだ道なら失敗しても自分で責任とれよと俺を突っ放していたらどうにもならなかったと思います。今頃アルバイトで必死に食いつないでいるでしょう。
自己決定・自己責任を美だとし、それを自ら選びとって生きる人が増えれば、失敗して立ち直れない人が増えて、下流層増えるわけです。自己決定・自己責任が国が掲げるロールモデルとしてアナウンスされる限り、
下流層は学ばない。
下流層が増えていく。
つまり、学ばない子どもが増えていくわけです。
またも閑話休題。
自分で選んだ道で失敗するなら悔やまないさ、とかっこいい言葉に騙されてはいけないっすよ。その言葉がもてはやされることで社会の構造的に弱者が増えていますからね。
振り返ってみてほしいのですが、大学生なら学費や仕送りなど親からお金をもらっている人が大半でしょう。それだけ親に迷惑をかけといて、自分は誰にも迷惑をかけないから、俺に迷惑をかけないでくれとは言えなくないですか。
自分が親に迷惑をかけた分は働いて返すだとか、親から受けた分は同じだけ子どもに与えると考えたりしますよね。あれをもっと延長しようって話です。
自分が失敗してもどうにかなっているのはほかの人に助けられているってことだから、ほかの人が失敗したときは自分がお世話するようにしたいものですね。逆に、自分が迷惑をかけられて、「気にすんな」と言ってあげたやつは自分が失敗したとき助けてくれそうですよね。
一度失敗したら終わりだなんて殺伐とした社会では暮らしたくないです。
本題に戻って、
以上二つの理由で、学びからの逃走が起こっていると言えるんですよ。今の日本やばいから気をつけろ!って内容の本でした。しかし、これだけ書いてもかなりの理路をはしょっていてわかりにくいと思うので、少しでも興味を持ったらこの本を読んでみてください。
そして最後に無理やり町づくりにつなげます。
当たり前ですが、町をつくる重要な要素として、住民がいます。そこに住む人たちが、今自分の知る価値しか認めない人たちばかりなら、自分で責任を負うからほっといてくれと言う人たちばかりなら、住みづらいですよね。そして、そこで生まれてくる子どもたちがかわいそうです。町に住む自分たちも町の空気を作っていることを自覚して、住みやすい町にしていきたいものですね。
夢を追って、リスクを背負って、成功して、日本(世界)を変えた!だの華やかな人ばかりが憧れられて、みんながそう目指す。そういう人たちがいても構わないんですが(と言うか、いて欲しいのですが)、同じように道路の修復や雪かきをしている人たちがいないと世界は成り立っていかないですよね。誰にも憧れられることなく僕らが見えないところで雪かきをしてくれている人たちに敬意をもっと持ってもいいと思うわけです。
精神的な話になってきたんですが、夢を持って頑張っている人を認めながら、雪かきをしてくれる人にも敬意を払う。お互い迷惑をかけあうことを苦としない。住民がそんな風に思っていたら、その町はとても住み心地の良い、いい町になりそうじゃないですか。
まず自分から、次に自分の周りで、こういう空気を作る。それも一つの町づくりかなと。
なんで、将来仕事なくしてどうしようもなくなったら岡山に来てください。寝るとこと食べるものくらいは用意できると思います。あと、俺が職なくしてたらお世話お願いします(笑)